自然の変容を趣くまま、感じるままに。

日々是好日

202119
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北九州市歴史散歩-10 - 人見庵 (?)  URL

2024/08/26 (Mon) 18:25:00
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 「製鉄飛幡(とびはた)門」は、何故「飛幡(とばた)」ではないのか。当初から疑問だった。
 「戸畑」という地名の由来は、岬門の端にあるので「門端」の意味。 奈良時代には「飛幡浦」あるいは鳥旗や名籠屋(なごや)の大済(おおわたり)、飛幡(とばた)という文字で登場している。 室町時代、筑前国御牧(みまき)郡麻生庄に「戸幡」とあり、「戸端」「都波多」「鳥羽田村」とも記された。現在使われている「戸畑」の文字自体は、応永3年(1396)につくられた麻生氏の所領目録」に「戸畑浦」と書かれており、文禄4年(1595)につくられた「筑前国田畠之高村々指出之帳」や文化9年(1812)に伊能忠敬が戸畑の測量を行ったときの日記にも「戸畑村」と書かれていることを学んだ。
 戸畑市史に記載されている昭和12年の「町名早見表」を見ると、鳥旗一丁目はあるが飛幡に該当する小字はない。角川地名辞典「大字戸畑」にも飛幡の小字はない。飛幡(とばた)は大字戸畑の一部で「浦」と呼ばれたのだろう。
 北九州市の地名に関する情報を調べていると、平成2年(1990)6月1日北九州市広報室広報課の戸畑区版(第643号PDF)に『大字戸畑の一部 飛幡町(とびはたちょう)』が新住居表示に実施することがわかった。同年、八幡地区(枝光)の旧本事務所を北九州市戸畑区飛幡(とびはた)1丁目1番地へ移転。平成7年(1995)、以前は名護屋岬にあった麻生神社を集合し飛幡(とびはた)八幡宮と社名変更。さらに平成10年(1998)には、沢見・天籟・戸畑中学の3校が集まり新しい飛幡(とびはた)中学校が開校した。新しい校名に適しているという理由だそうだ。新住居表示実施を機に「飛幡(とびはた)」が使われるようになったのだろう。
 かって先人が詠んだ飛幡(とばた)の浦は、歴史の流れの中で消え去った。「遠い恋人の面影でも偲ぶような旅愁を浮かべる」風景は忘却され蘇ることはない。建設と製造に従事した君津市の「人見浦」「大和田浦」「坂田浦」光景も同じ歴史を辿っている。
 平成31年(2019)新日本製鉄住金(株)は、日本製鐵(株)に商号変更。そして令和2年(2020)4月1日、八幡製鉄所・大分製鉄所及び光チタン部を統合して日本製鐵九州製鉄所が発足した。
 飛幡(とばた)、戸畑(とばた)そして飛幡(とびはた)。これから飛幡(とばた)の呼称は、飛幡(とびはた)に習練されていくのだろうか?
 「製鐵飛幡門」の疑問は新住所表示により決着したが、もう一つの疑問「洞岡(くきおか)門」が気になる。くろがね堅パン」を製造している話もあるが、ここで『ふる里に戻り振り返り、留守した時間を辿る』を一時打ち止めにする。拙文をお読みいただきありがとうございました。

北九州市歴史散歩-9 - 人見庵 (?)  URL

2024/07/10 (Wed) 10:24:09
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 入社した時の社名は「八幡製鉄(株)八幡製鉄所」だった。その後、合併を繰り返し定年退職時は「新日本製鉄(株)君津製鉄所」だった。
 平成24年(2012)に新日鉄と住友金属工業の合併により新日鉄住金が発足。令和元年(2019)に商号変更し日本製鉄株式会社。翌年に室蘭製鉄所、東日本製鉄所、名古屋製鉄所、関西製鉄所、瀬戸内製鉄所、九州製鉄所の6製鉄所体制になる。
 日本製鉄九州製鉄所は、令和2年(2020年4月1日)、八幡地区(旧八幡構内)、八幡地区(旧戸畑構内)、八幡地区(小倉)、八幡地区(光チタン)、大分地区(大分)、大分地区(光鋼管)に分かれている。ややこしい組織になった。
 「日本製鐵(株)九州製鉄所八幡地区」の主要な設備や総合センター(旧・本事務所)は、戸畑地区(戸畑区飛幡町1番1号)に存在する。国鉄枝光駅前にあった八幡製鉄(株)本事務所建物は跡も形も消滅している。往時を忍ぶ身にとって殺伐とした光景である。
 最近、日本製鐵(株)が「USスチール」買収のニュースを知る。「USスチール」を追い越し追い越せ!が目標だった…。私が入社後鉄鋼業の60年の流れは人々をまるでおとぎ話に誘う。昔日の感あり。

北九州市歴史散歩-8 - 人見庵 (?)  URL

2024/07/01 (Mon) 10:36:41
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名護屋崎古墳群
 戸畑郷土史会の事務局長を務める竹内英雄さん(54)によると、名護屋岬は日本書紀にも記され北九州市で最も古くから知られた地名で、遺跡は当時の八幡製鉄所の拡張工事で見つかった。発掘調査で横穴式石室3基が確認され、8体以上の人の骨や勾玉(まがたま)などの副葬品が出てきた。
 30代の頃に北九州市史の編集にかかわった行橋市歴史資料館館長宇野慎敏さん(69)は「頭骨(行方不明だった中の3点)の再発見には驚いた。古墳群は7世紀に入るころのものだと思う。当時、響灘から洞海湾沿岸には、百済を助けるために朝鮮半島に出兵していた人々が暮らしていたと考えられる」と話す。
 先年まで暮らした千葉県君津市にも昭和37年、君津製鉄所建設に先駆けて発掘調査された遺跡がある(写真)。社員社宅用地で約1300年前の横型で典型的な殉死古墳(虫神:通称妃塚)が見つかっている。規模は直径15mの円墳。全長9,6mの横穴式石室で平面形態から「L字型石室」と呼ばれ羨道付きである。中には人骨11体、直刀6本(長いものは95cm)、耳環5個(金メッキの銅製品)。その他に須恵器、土師器、矢じりなど。遺体は、その後私たちの調査で大和田霊園の忠霊塔に埋葬され安置せれているのがわかった。
 筑紫国と上総国が防人との交流や文化・歴史に思い馳せると悠久の時を感じざるをえない。

*URLは、千葉県君津市の山野草を紹介する「周西 三舟花紀行」図鑑です。興味の方はご覧ください。

北九州市歴史散歩-7 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/24 (Mon) 10:29:03
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 昭和11~13年(1936~1938)の測図を見ると、企業名が製鉄所作業場から八幡製鐵所戸畑作業所となり、戸畑海岸は浚渫埋立てで三味線の撥をした地形は完全に海底に埋没。名護屋崎の傍にあった硫黄ノ瀬には堤防の構築が進んでだ。
 その間の経緯を見ると昭和21年、GHQは日鉄の各作業所を賠償保全指定工場に指定。昭和22年には日鉄の分割を提案。それにより、過度経済力集中排除法が成立したことで昭和23年、二分割解散指示があり、官営日本製鐵所は四社(八幡・富士・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦)に分割の企業再建準備計画を申請して昭和24年に認可されたことで八幡製鉄株式会社八幡製鉄所が発足。ここで官営日本製鐵所は、昭和9年に成立して以来16年の幕を閉じた。
 昭和23~31年(1948~1956)の測図を見ると、埋立て跡地には八幡製鉄所戸畑工場、日発戸畑発電所の企業名がある。日本製鉄から八幡製鉄所になった昭和26年度から第1次合理化計画を定め、休止設備の復帰や新鋭設備の設置など合理化を進めた。戸畑海岸埋立て出来高を見ると昭和9年、東洋製鉄合併時現在では約52万㎡。昭和25年の八幡製鉄株式会社設立時には約260万㎡になり、膨大な埋立て敷地が完成した。
 かつて、日本書紀に書かれた名護屋崎。万葉集に記載されている飛幡乃浦。郷土史話に「…文字通りの白浜青松の浄地で、現在まで残されていたらひとり戸畑だけではなく、北九州随一の行楽地となっただろうに。」と語られた名護屋崎。
 美しい弧状の砂浜の入り江だった飛幡の浦は、昭和42~47年(1967~1972)、名護屋岬の残影のみとどめている。

北九州市歴史散歩-6 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/20 (Thu) 18:13:40
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 大正11年(1922~1926)の測図をみると、戸畑町(遠賀郡)の先端に名護屋岬(崎)があり洞海湾の入り口にも河ば島(中島)が見える。
 名護屋岬(赤色点線内)は、西に河代(こうしろ)。北方に電車道を踏み切った海岸。東は中原の浜を付け根とし北に向かって突出した三味線の撥(バチ)に似た岬で、俯瞰するとそのように見え、底の岩盤は砂混じりの赤粘土層、その上を厚い砂浜が一面に覆い戸畑側を見ても中原側を見ても美しい弧状の砂浜の入り江だったそうだ。いわゆる戸畑と小倉の海岸線が響灘に面した場所が「飛幡乃浦」である。
 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(埼玉大学教育学部 谷謙二 人文地理学研究室)資料をもとに大正11年~昭和42年までの戸畑海岸の変化を時系列で観察すると、大正11~15年測図では名護屋崎の地形に変化はない(三味線の撥)が、畑だった土地には製鉄所作業場と書かれ、建物らしきものがポツポツ見える。
 戸畑市史によると大正4年、久原鉱業株式会社が製鉄起業を企図し、その工場敷地に名護屋崎から境川地先一帯に埋め立てを計画、出願し、大正10年に認可された。と記述している。

 *参考:久原鉱業は製鉄起業設立準備中に東洋製鉄との合併がまとまり、いったん久原鉱業を社長とする戸畑製鉄株式会社を設立し、さらに東洋製鉄株式会社(渋沢栄一らが企画*鉄は国家なり)と合併したことで戸畑の製鉄工場として生まれることになる。大正10年、貸借契約が成立し、政府は東洋製鉄株式会社戸畑工場を「八幡製鉄所戸畑作業所」とした。

北九州市歴史散歩-5 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/16 (Sun) 10:12:44
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 戸畑市史を読んでいると、(五)郷土史話 『名護屋崎』の項に、「所謂戸畑の地の者でも名護屋崎を知っているのは恐らく明治生まれの人に限るだろう。そして彼等はあたかも遠い恋人の面影でも偲ぶような旅愁を浮かべるはずだ」。と表現している。先人が詠んだ風景はどこか。
 地図は天保元年(1830)頃に書かれた「戸畑古図」で、地名は遠賀郡戸畑村とある。戸畑村(赤枠)と中原村(黒枠)がみえ、北の名護屋岬(赤点線部)にかけては畑が広がっていることがわかる。
 この戸畑海岸は麻生氏時代から度々塩田を計画されたが実現までに至らず、明治年間にも企てがあったらしいが実現しなかった。今は新しい製鉄所の敷地になっている。
 現三六町の町名は、古図に見えるミロク(水枠)付近に弥勒菩薩(自然石)を祀る小堂があったことにちなみ「みろく」が「さんろく」に変化したとの説がある。
*注:地図の方向(東西南北)を読み返してご覧ください。

北九州市歴史散歩-4 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/15 (Sat) 16:45:15
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 前図の若松と戸畑の中間に位置する大渡川の洞海湾入り口の小島(中島:赤丸)について調べた。 
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原の功労により筑前国を拝領した黒田長政は、豊前との国境防備のため洞海湾の入り口付近の小島に城(中島城、若松城)を築いた。黒田長政入国以前は、永正年間に鳥旗の郷土武内治部が勢力を張っていたという。城は元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になった。
 『北九州・京築・田川の城』(中村修身著)の「元禄12年若松付近古地図」をみると、中嶋は古城と表記され、そのころには若松町(御番所)と戸畑村(渡場)間には渡し船が通っていたこともわかる。
 大正11年(1922)~昭和元年(1926)頃まで存在していた「中島」は、昭和14年10月~昭和15年12月にかけて洞海湾の航路拡張事業のため浚渫され現在はない。
 中島には明治13年(1880)、戸畑で初めて炭塊社という煉炭、コークス工場ができた。この名前について思い出話が残されているので紹介する。
 あるとき、石炭輸送の帆船で学校に通う地元の友人に「今、どこから来よるんや」と尋ねたら「かば島や」と答えた。「馬鹿かー」というと、ほかの友人が「中の島のことよ」と言った。それ以来、「河【白偏に斗】島(カバシマ)」は中の島の事で、新旧二つの名で呼ばれていることを知ったという。(北九州市の文化財を守る会会報より)
 中の島を偲ぶ有志は「河【白偏に斗】島(筑前国風土記に名が出ている)」の名前を残すため記念碑を建てた。この石は、旧戸畑区役所前の庭に保存されている。

北九州市歴史散歩-3 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/14 (Fri) 10:39:07
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 そこで、地名の由来や土地の歴史、大まかな区域の変遷などを知るため、『角川日本地名大辞典』を利用することにした。
 戸畑は飛幡・戸幡とも書き洞海湾に面して位置する。地名の由来は岬門の端にあるので門端(かどばた)の義である。〔古代〕飛幡浦は奈良期に見える浦名。筑前国遠賀郡のうち。鳥旗とも見える。洞海湾南岸の交通の要衝としての港だった。〔中世〕戸幡は室町期から見える地名。筑前国御牧(ミマキ)郡麻生庄のうち、戸端・都波多・鳥羽田村とも書く。
 地名は奈良朝の初め(平安朝遷都后)、元明天皇の和銅6年(713)、地名はなるべく感じのよい字を使い一字、三字を二字にするようにとの朝廷の命令が出た。そのとき地名を意味に関係なく感じのよい当て字に改め、無理に二字にしたので難しい読み方や当て字の地名が多くなった。
 日本の地名は、命名の由来が複雑で、文字の用法・読み方、書き方も難しく、その本来の意味や語源、来歴がわかりにくいこともある。中世・近世に置かれた武家の右筆(ゆうひつ:秘書役・文官)が、先住民が名付けた地名をそのまま、もしくは少し訛って採用する場合もあったのだろう。従って、時代や祐筆により異なる漢字(当て字)に変化したと考えられる。
 戸畑区のあゆみ(歴史・地名の由来)によると、現在使われている「戸畑」という文字は、天平宝字2年(758)に書かれた万葉集の中に記されている「飛幡」が由来といわれているが、戸畑の文字自体は、応永3年(1396)につくられた麻生氏の所領目録「惣諸浦塩浜其外所々目録」に「戸畑浦」と書かれており、文禄4年(1595)につくられた「筑前国田畠之高村々指出之帳(ちくぜんのくにでんばたのたかむらむらのさしだしのちょう)」や 文化9年(1812)に伊能忠敬が戸畑の測量を行ったときの日記にも「戸畑村」と書かれている。
 「とばた」の地名について戸畑市史は、多少の異説があるが今は現在の地名を「戸畑」とする説が有力である。としている。
 戸畑は洞海湾の入り口にあることから、古洞海湾の歴史をみると上図のようである。むかし洞海湾は、川状をなしていて江川によって遠賀川河口に通じていた。かつての洞海湾は、東西に20km、南北が2kmという非常に細長い湾で、水深は浅いところで1.5mしかなく干潮時には出船、入船が困難だった。
 戸畑市史で千年前の戸畑付近の地形を見ると、海岸では海流、波浪の働きで砂丘を中原から名護屋岬にかけて生成しているが、これらの堆積物も、その後の波浪で、現在の天籟寺川や境川などにより浸漬されている。市域の北は響灘、北から西を洞海湾に囲まれた一部が岬状の地形に位置する。
 紀貫之の古歌(古今六帖)に、
 「つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か」がある。大渡川は江川のことで、この歌からもうかがえるように、この頃の洞海湾は川状をなし、江川によって遠賀川とつながり本流の一部で遠賀川河口に通じていたことから、若松は離島だったことがわかる。
 洞海湾の古名は、洞海(クキノウミ)。「クキ」とは水を通す狭いところという意味。

北九州市歴史散歩-2 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/11 (Tue) 15:02:49
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 義妹の紹介で、近くの公園にグラウンドゴルフ場があり大手門GGクラブがあることがわかり入会した。思い違いからお茶引いたので散歩がてら勝山公園大芝生広場に行くと中に「万葉の庭」の石碑があるのに気が付く。碑文を読むと、
 「千年のむかし門司から小倉を経て戸畑にいたる一帯の海岸は美しい松林のつづく白砂の浜であった。うち寄せる波の音、海風にゆらく漁家のともしび、それらの風情は遠く都をはなれた旅びとたちの旅愁をそそり、歌ごころを誘い、万葉集に六首の名歌となってのこされた」と記されている。傍らにある碑文を眺めていると、その中の一首に「飛幡之浦」の文字に目がとまる。 
  霍公鳥飛幡之浦尒敷浪乃屡君乎将見因毛鴨
    巻十二 三一六五 【羇旅(キリョ)発思】 (作者不詳) 
 まさか、こんな場所で尋ね人(地名)に会えるとは!一瞬驚いた。「犬も歩けば何とやら」。今日は私にとって幸運な日和であった。
 原文を探すと『奈良県立万葉文化館 万葉百科(情報検索システム)』にたどり着く。歌詳細によると、
訓読み:ほととぎすとばたのうらにしくなみのしばしばきみをみむよしもがも(平仮名「とばた」表記)
読み下し:ほととぎす飛幡の浦にしく波のしばしば君を見むよしもがも(漢字「飛幡」表記)
現代語訳:霍公鳥が飛ぶ、飛幡の浦に重なる波のように、しばしば重ねて君を見るすべがほしい。揮毫者は西本願寺本万葉集と記述され、その海岸一帯を飛幡の浦と呼んだことがわかる。万葉人が愛でたであろう豊かな情景が目に浮かぶ。
 *注訳:「羈旅」は古くは「羇旅」と書き、「きりょ」と読む。旅といえば、馬と道連れの旅であった時代を彷彿とさせる言葉。羇旅発思:旅に思いを発(おこ)した歌。家を離れて客たること。
  佐々木信綱編『万葉集(上巻)』(岩波文庫)27頁
 *何故「とばた」 何故「とびはた」???

URLは、千葉県君津市を紹介する「きみつアーカイブス」です。興味の方はご覧ください。

北九州市歴史散歩-1 - 人見庵 (?)  URL

2024/06/07 (Fri) 16:19:46
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ふる里に帰ってきたんょ!

 私は、福岡県八幡市丸山町(現北九州市八幡東区)で生まれた。定時制高校卒業後、八幡製鐵(株)八幡製造所に入社し27歳の時に千葉県君津市八幡製鐵(株)君津製鉄所に転勤。君津製鉄所を60歳で定年退職。同時に(株)日鉄テクノリサーチに出向転籍、翌年61歳で同社を退職した。
 退職後、君津市シルバー人材センターに加入し地元の公民館に派遣され管理業務を担当した。地域の歴史・文化に興味がありサークルに参加し活動した。内容は松本ピアノの歴史・調査、ピアノ修復やミニコンサート開催(YouTube「松本ピアノ100年の歴史」参照)。
 この事業は財団法人 地域活性化センターに認められ各都道府県から市町村の取り組み事例195に推薦され、その中から「千葉県 君津市」(松本ピアノ製造の先駆 松本ピアノ遺産継承)が特集編9事例の一つに取り上げられ平成21年度地域活性化事例集として発刊された。
 その他に地域の歴史や山野草を調べデータ化、周西(すさい)の地域調査・編纂など活動した成果を「君津市文化のまちづくり市税1%事業」にエントリーし採択され資料を冊子にまとめ各々発刊した。さらに、君津に製鉄所が建設されてから60年。市政施工から50年を契機に農漁村がどのように「まち」が変化したかを記録に残す必要性を痛切に感じ公民館活動として採用していただくよう提言した。職員も熱意に賛同し事業として採択され「すさい・まちの変化100の記憶」をテーマに地域の人たちにインタビューを重ねた貴重な思い出を集め冊子として発刊された。この活動は、新聞各社・テレビなど全国版で報道されマスコミから取り上げられ大きな反響を得た。
 退職後の20年間を振り返ると、私にとって地域と共に歩むことができた最高の思い出深い「まち」だった。知識も能力も乏しい人間が、識見の高い先輩に導かれるままに指導され愚直に努力した。紆余曲折はあったがやり遂げた感があった。活動目標はほぼ達成され、次の目標を見いだせない脱力感を覚えるようになったころコロナが発生した。
 もろもろの葛藤をやり過ごす中、漠然と「ふる里」を恋する思い、ノルスタジーが日に日に募る。「病膏肓に入る」のたとえ、去年3月末、疎遠なりがちだった兄姉・親戚・故知との旧懐を温め、先祖供養が務めと決意。「まち」に別れを告げ、ふる里を終の棲家北九州市に移住した。
 ふる里は、大きく変貌し100万都市へと繁栄している。見ること、聞くことに興味津々な住処に驚く限り。一昔一言で探しきれない様変わりである。
 まち並みは、ことごとく見事に変貌遂げまさに今浦島である。西鉄路面電車に代わり西鉄バスが縦横無尽に運行している。これだけで時代は変わった。西鉄バスを見ていると「製鉄飛幡門」とディスプレイされている。移住して初めて出くわした地名がこの「飛幡門」。そんな名前あった?義妹に聞くと読みは「とびはた」戸畑製造所の通用門であることが分かった。
 在幡時、戸畑製造所の通用門は西門(泥田)・東門(三六)・中原門(中原)3か所だったと記憶する。 八幡から戸畑方面へ行くには中央町から西鉄路面電車を利用した。中央町電停は三差路で黒崎・戸畑・小倉方面に分かれていた。当時、大蔵電停から中央町電停間は坂道だったのでブレーキが利かず電車同士の衝突事故をよく見かけた。思い出のの一コマだ。
 ふる里に戻り振り返り、留守した時間を辿ることにする。

 *(注)
 URLは「私のYouTube」です。題名が「龍鳳凰(りゅううしんじん)中国語風に文字化けしてます。本当は「龍王犀人」。「ryuuousaijin」です。偽闇サイトではありません。興味があればご覧ください。
   <つづく>


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